「酒は百薬の長」ということわざの出典をたどると、医学書ではなく、ある政権の税金の布告に行き着きます。前漢を簒奪して「新」を建てた王莽が、塩・酒・鉄の専売制を敷く際に発した詔の一節が最初の記録です。つまりこの言葉は、もともと酒の効能そのものを論じたものではなく、「酒は民が自作できず必ず市場で買うものだから、国家が管理してよい」という財政政策の理屈の中で使われた表現でした。一方、「百薬の長とはいえど、万病のもと」という、日本でよく知られたセットの後半部分は、この詔にはなく、約1300年後に日本の随筆『徒然草』が付け加えたものです。そして現代の公的なガイドラインは、「少量なら安心」とは言っていません。厚生労働省が2024年に公表した飲酒ガイドラインは、疾患によっては少量の飲酒自体が発症リスクを上げるとしています。
この記事の要点
- 「酒は百薬の長」の最古の記録は、前漢末に政権を簒奪した王莽が塩・酒・鉄の専売を正当化するために発した詔(『漢書』食貨志下)。酒の効能を医学的に論じた文書ではない
- 「百薬の長とはいえど、万病のもと」というセットの後半は原典になく、日本の『徒然草』第175段(吉田兼好、鎌倉末期)が付け加えたもの
- 兼好は酒の弊害を厳しく指摘する一方、月夜や旅先での一杯には価値があるとも書いており、酒を全否定していない
- 厚生労働省「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」(2024年)は、高血圧(男女)・男性の食道がん・胃がん、女性の出血性脳卒中について、少量の飲酒自体が発症リスクを上げるとしている
- 日本人の約41%はアルコール分解酵素の働きが弱く、フラッシング反応を起こす体質。この体質の人が飲酒を続けると口腔がん・食道がんなどのリスクが非常に高くなるとされる
出典をたどる — 「百薬の長」は誰の言葉だったか
「酒は百薬の長」の最古の記録は、中国の歴史書『漢書』の食貨志下にあります。時代は前漢が滅び、王莽が「新」という王朝を建てた直後。王莽は塩・酒・鉄・貨幣鋳造など6つの品目・事業を国家の専売とする「六筦」という統制策を敷き、その理由を説明する詔の中で、次のように述べました。
夫鹽、食肴之將。酒、百藥之長、嘉會之好。鐵、田農之本。 (塩は料理に欠かせないものである。酒は百薬の長であり、めでたい席に欠かせないものである。鉄は農業の基本である。)
この一節に続けて、詔は「これらは民が自分の家で作れるものではなく、必ず市場で買わねばならない。だからこそ、値段が何倍になっても人々は買わざるを得ず、有力者や豪商がそこに付け込んで民を苦しめてきた」という趣旨を述べ、国家が専売として価格と流通を管理する必要性を説いています。つまり「酒は百薬の長」という一節は、酒の薬効を医学的に論じるためではなく、酒が生活必需品であり民が自給できないからこそ国家が管理してよい、という専売制の正当化の文脈で使われた言葉でした。
王莽の経済政策の是非は歴史家の間でも評価が分かれますが、この詔自体は、酒を売る・管理する側の理屈から出発した文書だという点は押さえておく必要があります。「百薬の長」は、最初から中立的な医学的評価だったわけではなく、財源を確保したい政権の言葉として歴史に記録されたのです。
日本語のことわざとしての初出は、これよりはるかに時代が下ります。精選版日本国語大辞典によれば、室町末期から近世初期に成立したとされる虎明本狂言「餅酒」に「そもそも酒は百薬のちゃうとして、寿命をのぶ」という一節があり、これが日本語文献における確認できる初出例とされています。中国の古典由来の言葉が、日本では狂言のせりふとして庶民に広まっていったことがうかがえます。
「されど万病のもと」の正体 — 『徒然草』が付け足した後半
「酒は百薬の長」というと、多くの人が続けて「されど万病のもと」というフレーズを思い浮かべるはずです。しかしこの後半部分は、『漢書』の詔には存在しません。日本で広く知られているこの対句は、鎌倉時代末期に吉田兼好(兼好法師)が書いた随筆『徒然草』の第175段が由来です。
兼好は同じ段の中で、当時の飲酒の風習——酒を無理強いする、酔って醜態をさらす——を厳しく批判し、次のように書いています。
百薬の長とはいへど、萬の病は酒よりこそ起れ。
「百薬の長とは言うけれど、あらゆる病気はむしろ酒から起きているではないか」という意味です。ここだけを読むと、兼好は酒を全否定しているように見えます。ところが同じ段の終盤で、兼好は筆致を変えます。
かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。
「このように疎ましいと思うものだけれど、自然とやめがたい場合もあるだろう」——として、月夜や雪の降った朝、花の下で酌み交わす酒、心を許した友との酒、旅先でふるまわれる酒には、それぞれに趣きがあるとも記しているのです。兼好は酒の弊害を痛烈に指摘しながら、同じ段の中で酒が場に興を添えることがある事実も手放していません。この両義的な距離感——酒を敵とみなさず、しかし美化もしない態度——は、SHIRAFUが「飲む夜も、飲まない夜も」と考える姿勢とも重なります。
つまり、私たちが「ことわざ」として知っている「酒は百薬の長、されど万病のもと」は、中国の専売制の詔と、約1300年後の日本の随筆家による批評が、後から一つのセットとして結び付けられたものです。前半は酒を売る側の理屈、後半は酒に手厳しくも公平だった随筆家の言葉。出自の違うふたつの文章が組み合わさって、今日私たちが知ることわざになっています。
現代の科学は何と言っているか — 「少量ならリスクゼロ」ではない
古典の由来を知ることと、現代の科学的な知見は別の話です。厚生労働省は2024年2月19日、「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」を公表しました。このガイドラインは、国内外の研究をもとに、疾患ごとに発症リスクが上がり始める飲酒量(純アルコール量)を整理した表を掲載しています。そこに示されているのは、「少量なら安心」とは言い切れない疾患がある、という内容です。
| 疾患 | 男性 | 女性 |
|---|---|---|
| 高血圧 | 0gを超えるとリスク上昇 | 0gを超えるとリスク上昇 |
| 食道がん | 0gを超えるとリスク上昇 | データなし |
| 脳卒中(出血性) | 週150g(1日20g)から | 0gを超えるとリスク上昇 |
| 胃がん | 0gを超えるとリスク上昇 | 週150g(1日20g)から |
| 大腸がん | 週150g(1日20g)から | 週150g(1日20g)から |
| 肝がん | 週450g(1日60g)から | 週150g(1日20g)から |
出典: 厚生労働省「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」(2024年)表1より抜粋
表の中で「0gを超えるとリスク上昇」とされているのは、男女ともに高血圧、男性の食道がんと胃がん、女性の出血性脳卒中です。これらの疾患については、少量であっても飲酒そのものが発症リスクを上げてしまうと、参考文献に基づく研究結果として整理されています。一方で、大腸がんや肝がんのように、ある程度の量(週150g前後)を超えたところからリスクが上がるとされる疾患もあり、すべての疾患で「一滴からリスクが上がる」わけではありません。疾患によって挙動が異なる、という事実を正確に読む必要があります。
同じガイドラインは、生活習慣病のリスクを高める飲酒量の目安として、1日当たりの純アルコール摂取量が男性40g以上・女性20g以上を挙げています。これは厚労省の健康施策における重点目標の基準であり、個々人の許容量を示したものではないと注記されています。
国際的な機関からも、近年は踏み込んだ声明が出ています。WHOヨーロッパ地域事務局は2023年、「アルコール消費に関しては、健康に影響を与えない安全な量というものは存在しない」との声明を発表しました。国際がん研究機関(IARC)はアルコール飲料を、証拠の確実性が最も高い「グループ1(ヒトに対して発がん性がある)」に分類しており、閾値は確認されていません。
なお、「少量の飲酒はむしろ心血管疾患のリスクを下げる」といういわゆるJカーブ仮説については、近年、比較対象とされる「非飲酒者」グループの分類に偏りがあるのではないかという指摘が積み重なっています。この研究史はお酒のメリットとは何かのJカーブ節で詳しく追えます。要点だけ述べれば、「適量なら健康にいい」という通説を積極的に支持する状況には、現時点の一次資料はなっていないということです。
日本人の体質という変数 — フラッシング反応と41%
厚労省のガイドラインがもう一つ強調しているのが、体質による個人差です。アルコールは肝臓でアセトアルデヒドに分解され、さらに酢酸へと分解されますが、この分解酵素の働きの強さには遺伝的な個人差があります。東アジアには、この分解酵素の働きが弱く、飲酒すると顔が赤くなったり動悸や吐き気がしたりする「フラッシング反応」を起こす人が一定数存在し、日本ではその割合が41%程度いると言われていると、ガイドラインは記載しています。
見過ごせないのは、その先です。ガイドラインは、フラッシング反応を起こす体質の人が、飲酒を続けるうちに不快にならずに飲めるようになった場合でも、アルコールを原因とする口腔内のがんや食道がんなどのリスクが非常に高くなるというデータがあるとして、注意を促しています。「顔が赤くならなくなった」「もう酔わなくなった」という体感の変化は、体質が変わったことを意味しません。もともと分解能力が弱い体質のまま、感覚だけが慣れてしまっている可能性がある、という点は知っておく価値があります。この体質と「飲むかどうか」という選択を重ねて自分の立ち位置を整理する視点は、お酒との4つの向き合い方で扱っています。
ことわざとどう付き合うか
ここまで見てきたように、「酒は百薬の長」は医学的な結論として生まれた言葉ではなく、専売制を敷きたかった政権の詔から始まり、日本ではその後、随筆家によって「万病のもと」という対句が付け加えられ、現在まで語り継がれてきました。そして現代の公的なガイドラインが示しているのは、「少量なら健康にいい」と単純には言えない疾患がある、という事実です。
だからといって、このことわざが「嘘」だから使ってはいけない、という話でもありません。ことわざは科学的な結論ではなく、時代ごとの人々が酒とどう付き合ってきたかを映す言葉です。「百薬の長」はその長い歴史のほんの一場面に過ぎず、人類と酒のより長い関わりについては酒と人類の通史で考古学的な証拠から辿っています。この言葉以外の酒にまつわることわざ・名言についてもお酒のことわざ・名言を出典で読み直すで検証しています。大切なのは、その出自と現在の知見の両方を知ったうえで、飲む・飲まないを自分で選べることだとSHIRAFUは考えます。健康のためにあえて飲む理由は、現在の一次資料からは支持されません。しかし、飲む理由が健康だけとは限らないのも事実です。味わい、儀式、人とのひととき——そうした機能については、前述の「お酒のメリットとは何か」で正面から扱っています。自分の飲み方を客観的に把握したい場合は、WHOが開発したAUDITというスクリーニングテストも参考になります。休肝日という習慣が実際どこまで効果を持つのかについては、休肝日は意味がない?で研究を整理しています。
よくある質問
「酒は百薬の長」は完全に嘘なのですか?
「嘘」というより、「出典が誤解されている」という方が正確です。この言葉はもともと、酒の医学的な効能を論じたものではなく、前漢を簒奪した王莽が塩・酒・鉄の専売制を正当化するために発した詔の一節でした。日本でセットで知られる「されど万病のもと」は、後から『徒然草』が付け加えた言葉です。現代の科学的知見としては、「適量なら健康にいい」という通説を積極的に支持する状況にはなく、疾患によっては少量の飲酒自体がリスクを上げるとされています。
「少量なら健康にいい」は完全に否定されたのですか?
疾患によります。厚生労働省の2024年ガイドラインでは、高血圧(男女)・男性の食道がん・胃がん、女性の出血性脳卒中について、少量であっても飲酒自体が発症リスクを上げるとされています。一方、大腸がんや肝がんのように、ある程度の量を超えたところからリスクが上がるとされる疾患もあります。「あらゆる病気が一滴から悪化する」という一律の脅しではなく、疾患ごとに挙動が異なる、というのが正確な理解です。
寝酒代わりの一杯くらいなら問題ないのでは?
体質と目的によります。厚労省のガイドラインは、フラッシング反応を起こす体質(日本人の約41%)の人が飲酒に慣れてしまった場合、口腔がんや食道がんなどのリスクが非常に高くなる可能性があるとしています。また、寝る前の飲酒が睡眠の質を下げる方向に働くことは寝酒は睡眠に悪い?アルコールと眠りの科学で詳しく解説しています。「眠るための一杯」という目的自体を、別の方法に置き換えられないか考えてみる価値はあります。
ではなぜ「酒は百薬の長」は長く信じられてきたのですか?
一つには、この言葉が中国の古典という権威ある出典を持ち、日本でも狂言などを通じて庶民に広まった長い歴史があるためです。もう一つには、酒に本当にリラックス効果や社交上の機能があること自体は事実であり、その実感がことわざの説得力を支えてきた面もあります。ただし、その機能と「健康にいい」という主張は別問題です。
この記事は「酒を飲むな」と言っているのですか?
いいえ。SHIRAFUは酒や飲む人を敵にしないメディアです。健康のために積極的に飲む理由は現在の一次資料からは支持されませんが、酒には健康以外の理由——味わい、儀式、人とのひととき——があることも事実です。この記事の目的は、ことわざの出自と現代の知見を正確に知ったうえで、自分の飲み方を自分で選べるようにすることです。
まとめ
- 「酒は百薬の長」の最古の記録は『漢書』食貨志下。前漢を簒奪した王莽が塩・酒・鉄の専売制を正当化するために発した詔の一節で、酒の効能を医学的に論じたものではない
- 「されど万病のもと」という後半部分は原典になく、日本の『徒然草』第175段が付け加えたもの。兼好は酒の弊害を厳しく批判しつつ、月夜や旅先での一杯の趣きも認める両義的な立場をとっている
- 厚生労働省「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」(2024年)は、高血圧(男女)・男性の食道がん・胃がん、女性の出血性脳卒中について、少量の飲酒自体が発症リスクを上げるとしている
- WHOヨーロッパ地域事務局は2023年、健康に安全な飲酒量は存在しないとの声明を発表。IARCはアルコール飲料を発がん性が確実なグループ1に分類している
- 日本人の約41%はアルコール分解酵素の働きが弱く、フラッシング反応を起こす体質。慣れても口腔がん・食道がんなどのリスクは高いままとされる
- ことわざを「嘘だから捨てる」のではなく、出自と現在の知見の両方を知ったうえで、自分の飲み方を自分で選ぶことが大切
参考文献
- 班固『漢書』食貨志下(王莽の六筦の詔)中国哲学書電子化計画 https://ctext.org/han-shu/shi-huo-zhi-xia
- 吉田兼好『徒然草』第百七十五段 https://tsurezuregusa.com/175dan/
- 精選版日本国語大辞典「酒は百薬の長」(虎明本狂言「餅酒」初出例) https://kotobank.jp/word/%E9%85%92%E3%81%AF%E7%99%BE%E8%96%AC%E3%81%AE%E9%95%B7-509932
- 厚生労働省「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」(2024年2月19日公表) https://www.mhlw.go.jp/content/12200000/001211974.pdf
- WHO Regional Office for Europe「No level of alcohol consumption is safe for our health」(2023年1月4日) https://www.who.int/europe/news/item/04-01-2023-no-level-of-alcohol-consumption-is-safe-for-our-health
- International Agency for Research on Cancer (IARC)「List of Classifications, Agents classified by the IARC Monographs」(アルコール飲料=Group 1) https://monographs.iarc.who.int/list-of-classifications
免責事項
本記事は公開されている一次資料に基づき、2026年7月時点で確認できた内容を整理したものです。飲酒量のコントロールが難しいと感じる場合や、心身への影響が気になる場合は、保健所・精神保健福祉センター・依存症専門医療機関・減酒外来などの専門機関にご相談ください。本記事は医療アドバイスではありません。